僕とファミコン〜過去から現在〜
僕のファミコンにまつわる思い出を過渡期になるソフトを交えて紹介します。
僕はテレビゲームが大好きです。中でもファミコンが大好きです。 僕とファミコンが出会ったのは確か4,5歳の頃です。しかし、ここで問題があります。僕の記憶の中には初めてファミコンに触れたと言う記憶が2種類あるのです。間違いなくどちらかが2番目になります。 @いとこの家で「ポパイ」で遊んだ。 A近所の友達の家で「スーパーマリオブラザーズ」の水中面を見た。 @の場合、「ポパイ」がでたのがファミコン発売と同時だったのでそれがいつだったかは全く見当もつきませんがAの場合、「スーパーマリオブラザーズ」が発売したのは1985年の9月13日なのでそれ以降となります。結論としますとやっぱりどちらかわからない。となります。 そんなこんなでファミコンと出会った僕はとにかくいろいろなゲームソフトで遊び始めました。もちろん家にはまだファミコンが無かったので友達やいとこの家ででしたが... そして、遂に我が家にファミコンが来ました。それはあまりにも突然の出来事でした。 ある日、僕が幼稚園から帰ってくると家の中にはファミコン本体とディスクシステム本体、そしてソフトは「オバケのQ太郎 ワンワンパニック」と「スーパーマリオブラザーズ2」とディスク版の「テニス」でした。その日から僕は家の中にあるファミコンで遊び始めました。しかし、そのゲームは両方ともとても難しかったのです。「オバケのQ太郎」の方は行けても3面のはじめのスズメでやられてしまい、そのおかげでやる気がなくなってしまったので数少ない「いまだにクリアしていないソフト」になっています。そして「マリオ2」の方その難易度の高さに玉砕してしまいました。しかし、こちらの方はしつこく遊び続け1990年頃にはクリアすることができました。それも一度クリアしてからはファミコンをするときには必ず一回は「マリオ2」をクリアするようにしていました。だから今では3機以内でクリアできる位になってしまいました。しかし、「A〜D面」の存在は知りませんでした。(正確に言えば「出し方」を知らなかった) ゲーム雑誌や攻略本と出会ったのもこの頃でした。 最初に読んだゲーム雑誌の名前は「ファミリーコンピューターマガジン」通称「ファミマガ」です。 読んだ場所はいとこの家でそのときに読んだ記事は「魔界村」の3面と4面の攻略だったと思います。これが僕と「ファミマガ」との出会いでした。 この時以来、僕は「ファミマガ」を最後まで読み続けました。最終的に家にある「ファミマガ」かなりの数になってしまい、置き場もない程になって高校に入る時にほとんど捨てることになって今では10冊程しか手元に残っていません。 次に攻略本との出会い。 僕が最初に手に入れた攻略本は「オバケのQ太郎」の攻略本でした。しかしこの本、全く役に立ちませんでした。だって前半が12日分のマップ、後半(むしろメイン)が攻略マンガという構成の本です。こんな本役に立つ訳がないじゃないですか。さらに「これがあれば999日目まで行ける」とか言って書いてある無敵ワザが「ジョイスティックが必要」なんですよ。(「ジョイボール」だったような気もするけど確認する気ナシ)こんな本でこの激ムズゲームがクリアできるはずがありません。こうして「オバケのQ太郎」ソフト、本共に我が家に半永久的に封印されることになりました。 次に買ったゲームは「メトロイド」でした。しかしこの「メトロイド」、A面B面の両面ディスクだったのでゲームの始め方がさっぱりわからず、結局買った日にはゲームを始めることすらできませんでした。そして、何日経ったかわからない時に遂にゲームが始まりました。しかしこのゲーム、どこに行けばいいのかさっぱりわかりません。それでもやり続けなんとか「ノルフェア」や「ブリンスタの小ボス」のエリアまでは来れるようになりました。しかしここから先には全く進めませんでした。「何度やってもすぐにゲームオーバー」「落ちたら戻れない」「水の中に入るとすごい勢いでエネルギーが減っていく」「ミサイルが足りない」「サイドホッパーが強い」このような理由で僕は全く進めなくなり親に攻略本を買ってきてもらいました。 その本のタイトルは「ケイブン社の大百科別冊ファミコン必勝法シリーズ メトロイド」と言いました。しかしその本は全ーったく役に立ちませんでした。だってこの本、マップはおろか攻略に関してもとても攻略本と呼べるような代物じゃないんですよ。 攻略の部分なんて1ページを2分割にしてその部分に写真を入れて簡単な文章があるだけですよ。書いてあることだって「この写真に部屋の上にバリアがある」とか「スクリューアタックで〜しろ」だとか「ハイジャンプブーツが無いと登れない」とかですよ。 はっきり言って写真の説明をしているだけです。こっちが知りたいのはそのアイテムがどこにあるのかですよ。 この本を読んで知ったこと、それはこのゲームには「ボムジャンプ」というのがあって先に進むためにはこれが絶対に必要という事とその「ボムジャンプ」を使えば橋を架ける事なく(つまりボス「クレイド」と「リドリー」を倒さなくても)「ツーリアン」に行けるということでした。 そして、この役立たずな本も半永久的に我が家に封印されることになりました。 しかしこの本、「オバケのQ太郎の攻略本」と違って今現在、家のどこにあるのか全く見当もつきません。結局、「メトロイド」もクリアすることができませんでした。しかし、サムスの正体が女性だということは知っていました。その理由は「ファミコンヒーローチョコ」のおまけのシールでそういうシールが当たったからでした。 思えばこの頃はファミコン関係のお菓子がたくさんでていたと思います。覚えてるだけでも「ファミコンヒーローチョコ」を始め「ファミコンヒーローガム」「ファミコンカートリッジケース付ゲーム菓子」(マリオや魔界村等のゲームのミニボードゲームとラムネがカートリッジケースの中に入っている)「テラクレスタピーナッツチョコ」「もえろツインビーピーナッツチョコ」「迷宮組曲チョコスナック」「ファザナドウチョコスナック」「マリオキャンデー」等があります。(多分他にもあるでしょう)ホント、ファミコン好きにはたまらない時代だったと思います。 そして「メトロイド」以後、僕はいとこにいろんなソフトを借りて遊び始めました。 ざっとその時に遊んだソフトのタイトルを挙げてみましょう。 「スーパーマリオブラザーズ」「スーパーピットフォール」「ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境」「エレベーターアクション」「迷宮組曲」「火の鳥」「ドラえもん」「チャレンジャー」「ドルアーガの塔」などなど他にもたくさんのソフトで遊びました。 そんなたくさんのゲームのなかで僕は「悪魔城ドラキュラ」と「リンクの冒険」という2本のソフトに出会いました。「悪魔城ドラキュラ」は今でも遊び続けているシリーズのひとつです。 一方、「リンクの冒険」の方はスタートしてすぐの洞窟で画面が真っ暗になって何だかわからないうちにゲームオーバーになったのを今でも覚えています。 しかしそのゲームは僕にとってはものすごく画期的で今でも大好きでリメイクされるのをずっと待っていたりします。 そして「リンクの冒険」をやったあと、親が本を買ってくれると言ったときに僕の弟は「リンクの冒険」の攻略本を買ってもらいました。ちなみに僕はフライデースペシャルの「魔界島」の攻略本を買ってもらいました。 その本の内容ですが「魔界島」の方はまともだったので無視するとして、問題は「リンクの冒険」の本です。 その本のタイトルは「ケイブン社の大百科別冊ファミコン必勝法シリーズ リンクの冒険」そう、あの「メトロイド」の本と同じシリーズです。もちろん、何の役にも立ちませんでした。本の内容はというと中途半端に神殿の攻略をしています。その他の情報も中途半端で一番大変だと思われるデスマウンテンに2〜3ページしか使っていません。これではデスマウンテンは越えられません。 あと、このゲームは敵の行動パターンを覚えるのが重要なのに敵のデータがほとんど載っていません。 ちなみに僕がこのゲームをクリアできるようになったのは1992年に近くの本屋で発見した二見書房の「ウラワザ大全集 リンクの冒険」という本を買ってからです。 この本を読んだ第一感想は「うわっ、敵のデータがひとりひとり細かく載ってる!?」でした。この時点で僕はこの本を買いました。さらにこの本は前半が地上マップの攻略、後半が神殿の攻略になっていて、さらに神殿2つごとにとじこみのマップ(しかもカラーでゲーム画面)が付いていました。ケイブン社の方と比べても出来の良さには天と地ほどの差があります。 それはこの2冊の本の家での扱いからもわかります。前者の方は家の中に何年もほったらかしにして置いてあります。一方、後者の方は「お気に入りの攻略本」としていつでも読めるように大事に保存しています。(買った時の状態のまま) ま、攻略本について書いているとキリが無いのでこの話はここで終わります。 話を戻しますと、「リンクの冒険」の存在を知った少し後に僕は「あるひとつのゲーム」にものすごく興味を惹かれました。僕がそれと出会ったのは近所のおもちゃ屋さんでした。 僕はそこで流れていたビデオを毎日のように暗くなるまでみていました。モニターから流れてくる画面は「不気味な敵キャラクターのイラスト」「3Dの迷路に戦闘画面」「お金を拾うボーナスステージ」「様々なな武器」というふうにいろいろあり、その全てが僕にとってはとても新鮮で何度見ても全く飽きることはありませんでした。ここまで書くとわかる人にはわかるとおもいますがこのゲームのタイトルは「月風魔伝」といいます。この時に僕の心の中に「KONAMI」という会社名が刻まれました。それはもう、何度「KONAMI」のロゴを見たかわかりませんでしたから...。 そして、その年の誕生日のプレゼントに「月風魔伝」のソフトを買ってもらったのですが、その時には身近なところにはファミコン本体がありませんでした。(田舎に帰っていたため) だから、ソフトと一緒に攻略本を買ってもらい、見る角度で絵の変わる箱と説明書、そして攻略本の3つで気分を紛らわしていました。しかし、日が経つ程に「ゲームがしたい」という欲求がどんどんたまっていき、とうとう僕はとんでもないことをしてしまいました。僕は親戚のおじさんに頼んで「ファミコン本体」を買ってもらったのです。「ファミコン本体」を持って帰った時には当然ながらものすごく怒られて結局、返しに行きました。その後、我慢をしているうちに時は過ぎ、とうとう我が家へと帰ってきました。そして、帰ってすぐに「月風魔伝」のカセットをファミコン本体に挿して遊びましたが疲れていたのですぐにやめてしまいました。ま、その日以降毎日のように「月風魔伝」をやっていましたが。 「何度やっても邪鬼に勝てない」とか言いながらとにかく適当に行けるところに行っていましたが楽しかったです。そして、遂に3D迷路まで来ました。しかし当時まだ幼稚園の年長だった僕には3Dがどういうものかまったくわからなくて適当に進んでいました。すると、そのうちに敵がまったく出現しなくなりました。こうなるともう何時間やっても全く同じ風景で全く進めなくなりました。そしてその時攻略本を見てみましたがそこにあったのは一枚のマップでどう見ればいいのか全くわかりませんでした。そして僕は3Dダンジョンをクリアするのをあきらめてとにかくマップ上を歩き回りました。『邪鬼には勝てないし、3Dダンジョンも越せない』とか思いながら鬼面符が必要な門の前まで来ました。そして僕は何を思ったのか上を押しっぱなしにしてスタートを連打したのです。「開けろー!!」とか言わんばかりに。 するといつしか門の向こう側に出ていたのです。そこは未知の世界でした。しかし、必要な手順を踏んでいない僕の風魔は鬼に次々とやられていきます。そして3番目の島までなんとかたどりついたころには僕は限界を感じそのゲームをやめてしまいました。その後、小学校に入って方角やコンパスなどのことを覚えた時に再び挑戦しました。その時には自分でマップを作りながらやりました。この時に僕はマッピングを覚えました。これ以来、僕はゲームのマップを書くのが大好きになりました。(正確に言うとデータノートを作ること) その後は「クルクルランド」「アイスクライマー」「イー・アル・カンフー」「1942」等のゲームをやっていました。 ここで当時、友達で集まって遊んでいたゲームを思い出してみますと「ファミスタ」「マリオ」はいいとして「新人類」「スーパーモンキー大冒険」なんかをやっていました。「スーパーモンキー大冒険」なんて今考えると『こんなに静かなゲーム、よく集まってやっていたなぁ』と感心するとともに『当時の子供達はどんなゲームでも楽しんでやっていたんだなぁ』と思いました。 そして1987年の12月...僕はとても大きな出会いをしました。それは「ロックマン」というゲームです。 「ロックマン」というゲームを始めて知ったのは「ファミっ子大作戦」というゲームの情報番組でした。 この番組で名人が実際にゲームをやって紹介するというコーナーがあるんですがその中で「ロックマン」を紹介した第3回目ぐらいで「ガッツマン」のステージを紹介していた時にそれは起こりました。なんと名人が「ガッツマン」ステージの最初のリフトの所でゲームオーバーになったのです。この瞬間、『おもしろそうだなぁ』と思って見ていた僕の目が『名人ができなかったことをしてみたい』というふうにかわりました。 それでこの番組がどうなったかというと、次の週に「ガッツマン」のステージのリフトを越えたところから始めて見事、ボスを倒していました。とにかく、これでこのゲームが欲しくなった僕は親に「買って買って」と言い続けました。そして、1月か2月のある日、僕が幼稚園から帰ると包装紙にリボンのついた箱がありました。僕はそれを開けました。中には「ロックマン」のソフト(もちろん箱に入っている)がありました。欲しかった「ロックマン」が手に入った僕はその日以来、毎日「ロックマン」を遊び続けました。 しかしというかやはりというかこのゲームはとても難しく、苦労してボスを倒しても次にやるときにはまた最初からというクリアにはとても時間がかかるゲームでした。 だからいつも最後までは行けませんでした。(最終ステージまでいったのが一度、その前のステージまで行けたのも一度だけ)でもおもしろいものはおもしろいです。このゲームが気に入りました。これ以来、僕は「ロックマン」のゲームが出る度にほぼ全て遊んでクリアするようになりました。そして、「5」の頃には「バスターのみでノーダメージクリア」をビデオに録画するぐらいになっていました。僕はこのゲームのおかげで全てのアクションゲーム(遊んだことのあるものほぼ全て)がクリアできるようになったのだと思います。 だって「6」以降になると毎回2体は初見でノーダメージでボスを倒していましたし...。 もちろんこのゲームも攻略本を買ってもらいました。 そんな感じで「ロックマン」をやっていた僕ですがここで1つ思ったことがあります。 それは『ロックマンって難しいからロックマンじゃないのか?』ってことです。だって世間一般では「ロックマン」は難しいとかよく言われてるけどみんなそれをクリアしているのです。少なくとも僕の周りの大多数の人はそうでした。なのに雑誌などでは毎回のように「難しい」と言われてきました。 「ロックマン&フォルテ」のときのファミ通なんて「初心者はオープニングステージですらクリアできない」みたいなことまで書かれていました。そしてその難しさのせいで点数もひどかったです。つまり、「ロックマン」シリーズは「難しい」というだけで世間での評価が低くなっているのです。その証拠に「エグゼ」になったとたんに殿堂入りをしてしまいました。 はっきりいって「ロックマン」が好きな人は常に「難しいロックマン」を待っているのだと思います。少なくとも僕はそうです。「ロックマン2」の「クイックマン」のステージでどれだけロックマンを死なせたかわからないぐらいにゲームオーバーをくりかえしてやっとたどりついたボスの「クイックマン」の強さを知って『こいつどうやって倒したらいいんだ』と思った時のようなものをまた「ロックマン」で味わえる日が来ないかと思っています。 で、この「ロックマン」というゲームですがある時、近くのおもちゃ屋さんでのことです。親にテレビゲームというものを認めさせたかったかどうかは知りませんが「学習ゲーム特集」というものすごいこじつけをしたコーナーがあって、そこで「ロックマン」は「理科の学習ソフト」として置いてありました。 それを見た僕は「理科の学習ソフト」というフレーズが気に入りました。だって「理科の学習」ですよ「理科の学習」。 まあ、理由は簡単に想像できましたけど。そして、この日から僕の中では「ロックマン=理科の学習」という公式ができました。 そして、新しい「ロックマン」のゲームが出る度に「理科の学習ソフトの〜が出る」とひとりで言っていました。そして、それからしばらくの間はいろんなゲームを勉強と結びつけてはどの科目に当てはまるのかを考えていました。確か「4」の頃のことだったと思います。 ゲームに関してはこんな感じで過ごしてきた僕ですが、個人的には『この頃(1987年1月から1988年3月)がファミコンのピークだったんじゃないか』と思っています。だっておもしろいゲームがものすごく多いし。 とりあえず好きなゲーム(このころの)を挙げれるだけ挙げてみます。 「火の鳥 鳳凰編 我王の冒険」「ドラゴンバスター」「リンクの冒険」「エスパードリーム」「ポケットザウルス 十王剣の謎」「ミッキーマウス 不思議の国の大冒険」「とびだせ大作戦」「グーニーズ2 フラッテリー最後の挑戦」「レリクス暗黒要塞」「魔界島 七つの島大冒険」「アルゴスの戦士 はちゃめちゃ大進撃」「北斗の拳2」「愛戦士ニコル」「妖怪倶楽部」「アテナ」「高橋名人のBugってハニー」「うっでぃぽこ」「所さんのまもるもせめるも」「ゾンビハンター」「月風魔伝」「夢工場ドキドキパニック」「ヘクター’87」「ファンタジーゾーン」「ボンバーキング」「ミラクルロピット 2100年の大冒険」「聖闘士星矢 黄金伝説」「魔城伝説U 大魔司教ガリウス」「夢幻戦士ヴァリス」「奇々怪界 怒涛編」「ドラキュラU 呪いの封印」「トランスフォーマーU ザヘッドマスターズ」「ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島」「ゾイド 中央大陸の戦い」「スペランカーU 勇者への挑戦」「沙羅曼蛇」「カリーンの剣」「バブルボブル」「ファザナドゥ」「時空勇伝デビアス」「ロックマン」「カルノフ」「コナミワイワイワールド」「ドナルドランド」「仮面ライダー倶楽部 激突ショッカーランド」「ガーディック外伝」「魂斗羅」「ドラゴンクエストV そして伝説へ」「アルカノイドU」「オリュンポスの戦い 愛の伝説」 数えてみると全部で49本もありました。もしかしたらまだやったことのないゲームの中にも好きになる物があるかもしれません。まあ、ここに挙げたタイトルのほとんどはクリアした人が余りいない無茶なゲームばかりですが・・・。だからこそ僕はこのころのゲームが大好きです。 僕はクリアできそうにないゲームに出会うと「クリアしてやる」と思ってそのゲームに燃えます。そして、そのゲームをクリアします。とりあえずこれらのゲームのクリア状況を簡単に書いてみたいと思います。
かけあしで感想を述べてみましたが僕にとってこの頃のファミコンソフトはとても一言で述べられるものではありません。(中には一言で述べられるものもありますが) あと、もしかしたら他の年にはこれを超える数の好きなソフトがあるかもしれませんが僕にとってこの頃のソフトは『熱さ』が違うのです。 で、「ロックマン」をやりながら小学生になっていった訳ですが僕の通っていた幼稚園と通うことになった小学校はかなり距離がはなれていたので僕の通っていた幼稚園から同じ小学校に上がったのは僕以外ではたったの3人でした。しかも全員女の子です。 だから小学校に入ったら友達を全くの1から作り直さなければならなかったのですがそれは実際のところ、全く問題ありませんでした。 その理由はと言うと、僕は友達を作るのが得意だったのですぐに2,3人の友達ができました。と、ここまでは良かったのですが、学校に行き始めてすぐの土曜日にある「事件」を起こしてしまいました。 その日、僕は仲良くなった友達のMくんと一緒に学校の帰りにTさんの家にゲーム(もちろんファミコン)をしに行きました。 もちろん、すぐに帰るつもりでしたが始めると時間が経つのは早いもので気付いた時には時間はもう夕方の5時でした 。そして、「帰ろう」とTさんの家を出た時、外は大騒ぎしていました。僕とMくんの2人が家から出るとすぐに「保護」されました。 なんと、僕とMくんが家に帰らずに遊んでいた間に外では「行方不明」や「誘拐事件」にまで発展していたのです。だからいろんな人が僕とMくんを探していたのでした。 『そんなこと』を不本意ながらもしてしまった僕とMくんは親と一緒にいろいろな所に謝りにいきました。そのおかげで親同士が仲良くなったりしましたけど。 入学早々、『こんなこと』をしてしまった僕はすっかり『有名人』になり、僕は友達に困らなくなって毎日、別の人と遊んでいました。 ちなみに『そんなこと』を起こしていた時にやっていたソフトで覚えているのは「スーパーアラビアン」「グーニーズ」「ハイドライド・スペシャル」「ドンキーコングJr.」「鉄腕アトム」「ヴォルガードU」と、まあこんなかんじです。 これらのソフトで一体、どうやったらそんなにも時間が経つというのかという疑問を抱かずにはいられません。(だいたい、「ハイドライド・スペシャル」なんて始めてすぐに消したというのを覚えてるし) ここからはもう、完全に「ゲーム三昧」です。毎日、様々なゲームであそびました。 そして、夏休みが過ぎた頃、僕はテレビで1本のCMを見ました。 そのCMはゲーム画面が一切出ず、アニメーションだけのものでした。そのCMはそう、「スーパーマリオブラザーズ3」です。 マリオが空を飛んだり飛空船が登場するこのCMを見た僕はこのソフトが欲しくなりました。 そんなある日、家族で行ったデパートのおもちゃ売り場で1回10分100円で発売前の「スーパーマリオブラザーズ3」が遊べたのです。(ちなみにこのおもちゃ売り場ではその後も発売前のソフトをいろいろ遊ぶことができましたが今はもうありません)それを見た僕はもちろん親に遊ばせてもらいました。そこで僕が見たものは「マリオ1」とも「マリオ2」とも全く違うさらにきれいになった画面でした。「このはを取ったらしっぽマリオ」「おんぷブロックの存在」「カメのこうらが持てる」「ブーメランブロスという敵の出現」「予想外だったボーナスステージ」「突然の強制スクロール」「つり天井がおりてくる」「クッパでないボスの登場」「絵合わせゲーム」「地上と水中の一体化」「マップ上でのハンマーブロスとの対決」などなど、数え始めたらキリがないくらいの「マリオ3」の持つ魅力に僕は一喜一憂していました。 そして、その後も何度か連れてきてもらい、その度にやって2面の砦ぐらいまでは行きました。 そして、「スーパーマリオブラザーズ3」の発売日・・・・ なんと、親が「スーパーマリオブラザーズ3」のソフトをとある一冊の雑誌を買ってきました。喜んだ僕は弟と一緒に「マリオ3」の箱を開け、ソフトを取り出し、ファミコン本体に挿して「スイッチ・オン」 するとテレビの中には赤い色のカーテンが表示されたあと、そのカーテンが開いてマリオとルイージが登場し、「スーパーマリオブラザーズ3」のタイトルロゴが現れました。 おもちゃ屋では何度となく見たこの画面も家で見るのとおもちゃ屋で見るのとではわけが違います。そして、スタートボタンを押してゲームを始めました。ゲームを始めてみるとステージをクリアしてもクリアしても次のステージがあって、僕は飽きることなく「マリオ3」のゲームを楽しみました。 思えば今までのマリオのゲームは8×4の32ステージだったので今回の「マリオ3」でのステージの多さにはびっくりしました。(ワールド1だけでも1−1〜1−6と砦と飛空船の合計8ステージ)で、その日はワールド3の海の国に行った辺りでゲームをやめました。 そしてこの時、雑誌の付録を見ながらやっていました。(もちろん親がソフトと一緒に買ってきた雑誌です)その付録はマリオ3の攻略をマップ付きでやっていました。それもワールド4まで+その先のステージを写真で紹介までしていて、その本はとても役に立ちました。で、親の買ってきた本の名前ですが「ファミコン通信」といいます。そう、今でいう「ファミ通」のことです。 この時が僕と「ファミコン通信」の最初の出会いだったのです。 話は戻って「スーパーマリオ3」ですがソフトが家に来て以来、僕は毎日このソフトで遊んでいました。 このソフトはクリアするまでのステージ数が本当に多かったです。クリアするまでにも途中でつまずくことが多々ありました。中でも一番苦労したのは「6−5」でした。この「6−5」というステージ、最初はどこにゴールがあるのかもわからず、画面の右端までいって土管に入ると左のほうに戻ってしまうため時間切れまで同じ所をぐるぐると回っていました。そしてさらに、ゴールがどこにあるかがわかってもどうやったらそこに行けるかがわかりませんでした。だから、僕は毎回「ジュゲムの雲」を使ってそのステージをとばしていました。 この「6−5」というステージを詰まらずに最初のプレイでクリアできた人って多分いないと思うんですが(攻略本を見てからとか人に聞いて知っていたとかはナシ)この文章を読んでいるみなさんはどうだったでしょうか。 と、まあ「マリオ3」の話はこれぐらいにして次に僕が欲しいと思ったソフトは「ドラゴンクエストW 導かれし者たち」でした。 この時点での僕のドラクエ歴はというと ドラゴンクエスト・・・いとこがやっているのを最後まで見ていた ドラゴンクエストU・・・友達がやっているのを見ていて僕はふくびきをやらしてもらっていた ドラゴンクエストV・・・近所のお兄さんに最後まで見せてもらっていた とまあ、こんなもので要するに僕はまだ「ドラゴンクエスト」というゲームをまともにやったことがありませんでした。 RPG歴のほうもひどいもので「貝獣物語」をやっただけという全くのRPG初心者でした。 そんな僕がなぜ「ドラクエ4」をほしくなったかというと、まず「ドラクエ3」の時の騒ぎを知っていたのでその続編の「4」に興味がありました。さらにもう1つ、「週間少年ジャンプ」や「ファミリーコンピューターマガジン」に載っていた数々のモンスターイラストが気に入ったからでした。 で、そんな理由で「ドラゴンクエス4」を買うことになったんですけど、僕が「ドラクエ4」を手に入れるまでの間には絶対に忘れることのできないエピソードがあります。 それは「ドラクエ4」を予約する時のことでした。「ドラクエ4」を予約しようとすると店のおじさんが「このゲームはみんなが欲しがっているからプレミア価格で1万円と言われました。当時の僕は「プレミア」なんて言葉は全く聞いたこともなかったので『プレミアってなに?』って感じでした。で、「プレミア」って言葉の意味もわからずに結局、ソフトを買ってしまいましたが。 はっきりいってこの時に買った「ドラクエ4」が僕が定価を超える物を買った最初で最後だったりします。(まさか、この時初めて聞いた「プレミア」という言葉がまるで売り文句のようにあたりまえに存在する世の中が来るなんてこの時には夢にも思わなかった) で、そんなことがあって手に入れた「ドラクエ4」、このゲームに対する僕の思い出ははてしなくあるので特に忘れられない思い出を1つ紹介します。 始まりはそう、友達がカジノでコインを安く買う方法(たしか数字を表示できるのが838860枚までが最高でそれに+1した838861枚にするとカウンターが一周回り、その時の余りの4ゴールドでコインが買えるということだったはず)を発見しました。 それを聞いた僕はその時、5章でした。それで早速、家でやってみました。すると、できました。 たったの4ゴールドで大量のコインが買えました。『これでカジノの景品が全て手に入る』と思った僕はとりあえず「はぐれメタルの盾」から交換を始めました。そして、「はぐれメタルの盾」を装備できる人全員に装備させ、次は「ほしふるうでわ」を装備させようと思いました。「ほしふるうでわ」は全員が装備できたのでたくさんの数が必要でした。 それがめんどくさいと思った僕は(今ではそれぐらいのことでは面倒だなんて思いませんが)連打機(ジョイカードMkーUのこと)を取り出してファミコン本体に取りつけようとしました。で、コネクタを外し連打機を取りつけました。 すると、画面が全く動きません。音楽も聞こえなくなっています。そうです、ゲーム画面がついているのにコントローラーを挿したショックでゲームが止まってしまったのです。そして僕は『またやり直せばいいや』とファミコンの電源を切り、またつけました。 すると、タイトルのあとにあの「ドラクエをやったことのある人ならだれでも一度は聞いたことのある音」が流れてきました。この時僕はこの音の怖さを知りました。僕は泣きました。周りにはたくさんの友達がいましたがそんなことには構わずに泣きました。そして唯一消えずに残っていた3章でセーブしたときのデータでやりなおしました。 この時以来僕は「ドラクエ」をやるときにはまず「音消し」で始めるようになりました。ちなみに「ドラクエ」をやったことのある人でこの音を聞いて身体が「ビクッ」とならない人はいないと思いますし、この音を聞いて『うそだ!こんなの信じないぞ』と現実逃避をした人も決して少なくはないと思います。 そして僕はこんな「1つの音」で人をここまで不幸な気分にさせることができる人間がいることをすごいと思いました。 ちなみに僕はこのゲームをデータが消えるのを何度も経験しながら3年がかりでクリアしました。 で、その頃は家ではそんなにいつでもファミコンができるわけでもなかったので僕は毎日、友達の家に行って遅くまで(夜の8時ぐらい)遊んでいました。そしてその度に家に帰ると母親に「そんなんやったら○○くんの家の子になりなさい」と言われ家に入れてもらえずに家の外で立たされていました。そして、ファミコンができないときにやっていたことがもうひとつ、それはゲーム雑誌やゲームの攻略本を読むことでした。ファミコンのソフトは高いので年に2,3本しか買ってもらえなかったけど雑誌や本は安かったのでたくさん買ってもらっていました。だから欲しいゲームの攻略本を買ってもらってそのゲームを遊んだ気分になっていました。 そして、ファミコンに関する知識はどんどん増えていきました。その頃からでしょうか、学校の中で僕が「ゲームがうまい」とか「ゲームにくわしい」とか言われるようになったのは・・・。 それで、ほとんど面識のない(名前を知ってるぐらい)の人から家にファミコンのゲームの質問の電話がかかってくるようになりました。で、その質問にいちいち答えていたんですが、今考えるとあの頃に詳しかったファミコンソフトの数なんて氷山の一角だったのだなぁと思います。 そんな感じで「ドラクエ4」が一段落ついたところで(度重なるデータの消失でやる気がなくなったともいう)今度は「ドクターマリオ」というゲームソフトが欲しくなりました。「ドクターマリオ」というゲームはいわゆる「落ち物型のパズルゲーム」で僕がそのタイプのゲームでそれまでに遊んだことのあったゲームは「テトリス」だけでした。 その「テトリス」も最初に遊んだのはゲームボーイ版で、ゲームボーイ版をやった後にファミコン版をやったものだから操作が全然違ってブロックをまわそうとAボタンを押すとまっすぐ下にブロックがおりてしまった上、ブロックの回し方がわからなかったのでゲームの遊び方すらもわからない始末でした。そんな僕がファミコンの「ドクターマリオ」を欲しがった理由は「マリオのゲームであること」と「家族全員で楽しめるから」でした。僕は「マリオ」のでてくるゲームが好きでした。 あと、ひとりでゲームをするのも好きだけど、たくさんの人とわいわいゲームをするのも好きでした。だから、その年の誕生日プレゼントとして「ドクターマリオ」のソフトを買ってもらいました。 この「ドクターマリオ」というソフトは操作も簡単で音楽も良いためすぐに家族全員がハマって遊んでいました。やればやるほどみんな上達していき、遂には対戦のレベル20でクリアできるぐらいになっていました。母親ですらもレベル23とか行っていました。さらに、周りの友達の母親たちはレベル40とか行っていました。そして、この「ドクターマリオ」というソフト、僕の家でのファミコンソフトのプレイ時間では間違いなく1位になります。今でもたまにつけては対戦しています。そんな「飽き」のこないソフト、そうはないと思います。 そしてそのしばらく後、スーパーファミコンが発売されて僕の周りの友達はみんなスーパーファミコンで騒いでいましたが僕の家にスーパーファミコンがやってくるのはもっと後のこと(92年5月)なので僕はひたすら家でファミコンをやっていました。 そして、92年の秋のことでした。家の近所に「ゲームショップ」なる物ができました。 それまでは僕の周りには「ゲームショップ」というものがなかったため「ゲームはおもちゃ屋で買う物」と思っていました。 そして、オープン日に「スーパーファミコン争奪!ジャンケン大会」というものをやるというので参加しました。 もちろんすぐに負けました。そしてそのあと、その「ゲームショップ」に入りました。 店の中に入って僕は驚きました。なんと店内には古い物から新しい物まですごい数のファミコンソフトが置いてあったのです。 そこにはもう手に入らないと思っていた昔欲しかったたくさんのソフトたちの姿がありました。しかも安いです。 そしてそこは「ゲームソフトの買取」というものをしていました。この時初めて僕たちは「ゲームソフトが売れるもの」ということを知りました。その時、僕は友達数人と来ていたのですがそれを知った友達はもう、大騒ぎです。 その日以来、友達はみんな次々にファミコンソフトを売っていきました。数百本ものソフトを売った友達もいました。 みんなもう、その時にはスーパファミコンをやっていたのでファミコンをすることはもうほとんどなかったのです。 だからもうやらないソフトなんて邪魔なだけだったのでした。こうして僕の周りのファミコンソフトはどんどん(というよりあっというま)になくなっていきました。そして僕はというとスーパーファミコンのソフトは1本1本がとても高くてなかなか買えなかったので昔欲しかったソフトを次々と安くで買っていきました。 その日から僕にとっての本当の意味でのファミコンが始まりました。 昔のソフトはパスワードもセーブも時にはコンティニューさえもなかったので朝早くに起きて学校に行くまでの時間の間、静かにひとりでファミコンをやっていました。 僕の周りでのファミコンブームは「データック」が最後でした。「ドラゴンボール」から「幽遊白書」までの間、もう毎日が強いバーコード探しでした。ファミコンソフトではここまで大勢の人間が集まってしかも順番を待たされることなく遊べるなんてソフトはそれまでは存在していませんでした。 それがこの「データック」ではそれぞれがバーコードを持ち寄って順番にバーコードを通し、そこに表示されるデータを楽しむということだけで遊びとして成立していました。 その後、僕の周りではもうファミコンをする人はいなくなりました。 そして、僕はその後もひとりで(ムリヤリ周りを巻き込みながら)ファミコンで遊んでいました。 周りが「サターン」や「プレイステーション」で騒いでいた時もファミコンをやっていました。 さらにそのころにはもう、ファミコンのソフトなんて100円を切っているものがたくさんありましたから1000円札を持っていけば大量のファミコンソフトを買うことができました。こうなるともう、止まりません。僕は次々とファミコンソフトを買っていきました。(98年とかになっても月に1本は買っていた) しかしそれもそう長くは続きませんでした。 僕がファミコンソフトを買いまくっていた時、間違いなくファミコンの時代は終わっていました。 もう、ファミコンを扱っている店もほとんどありませんでした。しかしある時、周りの店がいっせいにファミコンソフトの買取を始めました。(だいたい50本2000円とかで)すると周りのファミコンソフトの値段が一気に跳ね上がりました。 今度買おうと考えていたソフトがいっせいに消え始めました。ファミコンソフトを1本100円で売っていた店がいきなり1本3000円になっています。(その前に行ったのは3日ぐらい前だった)僕は驚きました。 しかし、理由は簡単でした。 その理由はそう、最初に50本2000円で買取をした店にあったのです。 この時、10円、20円で買えるようなソフトがたくさんあったので一部の人がそれを買い占めてその店に売りに行っていたのです。ちなみにそのお店のファミコンソフトはものすごい勢いで増えていきました。そう、まるで周辺のすべてのファミコンソフトを集めようかというように・・・。 さらにそのお店、買取は異常なまでの低さなのに販売価格は異常なまでの高さでした。一番低いものでも480円で「ドラクエ」シリーズなんて軽く100本は越えているのに1本700円です。「ファイナルファンタジー」シリーズに至っては1本2980円もしていました(ちなみに全部ソフトのみ) さらに一部のソフトなんて常軌を逸しています。ここにその一例を挙げてみます。 リップルアイランド(ソフトのみ) 19800円 ヒットラーの復活(ソフトのみ) 9980円 ファイナルファンタジー1・2(ソフトのみ) 7980円 アテナ(ソフトのみ)9980円 ファイナリファンタジー1〜3セット 10000円 というような見ているだけで頭が痛くなる程の値段がつけられていました。 ちなみにディスクシステムのソフトなんて最低でも1枚1480円もします。 そしてこのお店、本当に買取価格が低いのです。 買取価格が知りたくてためしに店で定価を越えている物を持っていってみました。買取価格は10円でした。 その時僕はこの店のことを「ボロもうけ」だと確信しました。 仕組みはこうです。まず、誰かが50本のファミコンソフトを売りに来る→それを1本480円に分ける→その中でめずらしそうなものを高く売る とまあ、こんな感じだと思います。 こんなことをしているのでお店の総ソフト数はどんどん増えていきますがほとんど減っている様子はありません。たまに異常に高いソフトが無くなっていますが多分、『こんな値段でも売れる』とでも思わせたいのかしばらくしたら(1ヶ月ぐらい経ったら)また置いてあります。きっとだれもそんなソフトを買っていないと思います。(多分、意図的に隠しているのでしょう)で、そんなこの店も「このままでは客に悪い」と思ったかどうかは知りませんが(絶対思っていない)1年ぐらい前から一部のソフトの買取表を作るようになりました。しかし、その買取表を見てびっくりしました。そこに書かれていたのはどうみてもプレミアなどつけない「普通の店」の買取価格です。はっきりいって信じられないような値段がついています。もちろん安い方で。もう、思い出すのも嫌ですが少し書いてみたいと思います。 メタルスレイダーグローリー(箱・説つき) 800円 バブルボブル2(箱・説つき) 1000円 これ以上はもう書きたくありません。 1つだけ言うとすれば一部の人が探しているような非売品のソフトでも買取が2000円ってことです。 はっきりいってこの店、客をナメてます。どうひいき目に見てもナメてます。 MSXの本体のジャンク品が39800円で売っていた(売り文句は「プレステ2と同じ値段!」だった)ときは自分の目を疑いました。今ではもう、この店に近寄ることすらも嫌です。半年に一回ぐらい「何かないかな〜」とか思って行ってしまうことがありますがその度に頭が痛くなり気持ち悪くなって帰ってきます。 この店のソフトの話なんですがこのみせにあるソフトには全て盗難防止用のタグがつけてあるのですがこのタグ、ソフトに直接貼ってあるのです。それも2,3重にして貼ってあります。 買って帰って来てもそのタグを外そうとすればソフトそのものに貼ってあるシールまで剥がれてしまうのです。 箱に入ったソフトを買ってきても中のソフトにまでタグが貼り付けてあります。 これではもう、この店で買ったソフトは迂闊には持ち歩けません。もちろん、売ることもできません。 こんな商品を定価以上で売るほうが間違っています。 で、こんなダメダメな店ですがこんな店が出来てしまったら周りの店も値段を合わせるしかありません。こうして周りの店のソフトの値段も跳ね上がってしまいました。そして今ではもう、その店以外の店にはほとんどファミコンソフトがないという状況になってしまいました。(下手すると10000本ぐらいあるかも)つまり、何かソフトが欲しくなってもそのソフトを売っている店があの店以外にないため、(周りのほとんどのソフトがそこに集まっているから)わざわざ高いお金を出してそのソフトを買わないといけないということになっているのです。 この時、僕は「ファミコンソフトを集める」ことに限界を感じました。 僕には小さい頃からの夢が2つありました。それは「全てのファミコンソフトを集めて遊ぶこと」と「ビックリマンシールを全て集めること」の2つでした。 僕はこの2つの「夢」の両方をこの店につぶされました。「ビックリマン」の方はもう、あきらめました。しかし「ファミコン」の方はまだあきらめてはいません。今でもゆっくりとだけど買っては遊んで、クリアしています。そして、現在に至ります。 あと、どれくらいかかるのか全く見当もつきませんが僕はいつの日にか全てのファミコンソフトを集め、そして、遊びたいと思います。目標はそう、将棋と麻雀の一部のソフト以外の全てのソフトについて語れるぐらいになりたいです。 とりあえず今はファミコンソフトが安くなるのを待ちたいと思います。 僕がファミコンに出会って約17年、ファミコン世代に世話になった店はもう、全てつぶれてしまいました。これは聞いた話によるとソニーのせいのようです。ファミコンの時の任天堂と違ってソニーという企業はソフトを扱う店に多額のロイヤリティーを要求するようです。このロイヤリティーというものがそうとうあくどいものらしく、それが払えなくなった店はつぶれてしまったそうです。というよりもプレイステーションのソフトを扱い始めてからは儲からなくなったそうです。 僕はソニーがどうして勝利できたのかが今でもわかりません。自分の経験や人から聞いた話を総合するとソニーという企業は全然「ユーザーフレンドリー」じゃありません。 僕自身の体験をひとつ話してみましょう。 あれは家にプレイステーションが来て1年と少しが経った頃のことです。 プレイステーションには買って1年の間は無料で修理してもらえるという保険がついています。 我が家のプレイステーションは1年と数日で壊れてしまいました。そして早速、修理に出しました。 すると、1ヶ月ほどかかるということでした。そして、1ヶ月待ちましたがプレイステーションは帰ってきませんでした。 電話をしてみると「まだ修理していない」ということでした。で、その後半月程して帰ってきたんですが修理代を見てビックリ。 なんと修理代がもう1台「プレイステーション」が買えるほどだったんです。 最初に値段(修理の)を聞いた時には「1ヶ所だけだからそんなにかからない」という話だったのですが、見るとほとんどの部品が換えてあるようでした。 さらにそのあと、修理したばかりなのに今度はフタが閉まらなくなりました。もう2度とソニーに修理なんて頼みません。だからその「プレイステーション」を今でも使っています。 あと、ソニーが許せない理由をもうひとつ、これは友達の話です。 ソニーがPS用の液晶モニターを出した時のこと、PSの液晶モニターが買って3日で壊れてしまいました。 ソニーに電話をすると「そんなはずはない」と言ってまったく信用してくれませんでした。 もちろん本当に壊れました。だから僕はそんな「ユーザーに対して投げやり」なソニーがどうして天下を取れたのかが本当に信じられないのです。 と、ここまで書いてみて思ったのですが何か、いつのまにか「ファミコン」の話じゃ無くなってますね。だからそろそろ終わりたいと思います。 最後に、1つだけ。ソニーよりも任天堂の方が圧倒的にユーザーフレンドリーです。だって今でもディスクシステムの修理をしてくれるし未だにファミコンの生産やってるし、ディスクの書き換えもやってくれていますから・・・。 つまり、任天堂の機械は今の所、持ってさえいればずっと遊び続けることができるのです。 ソニーなんていつ修理をやめるかもしれないし・・・ あと、この間のことですが購入した「ゲームボーイアドバンスSP」が初期不良で突然音が出なくなったので修理に出したら1週間で修理されて帰ってきました。ホント任天堂はすごいところです。電話でもちゃんと応対をしてくれました。ちなみに音が出なくなった時に遊んでいたソフトは「スーパーチャイニーズランド3」というかなりマイナーなソフトだったりします。(通しでクリアしようとしていた) |